死刑は神の冒涜である
人を殺す人も神が作った場合がある。
人すべて神が作ったとすればそういうことになる。
それを死刑にすることは、神の意思か。
すると人を殺し合いさせるために、
神が人を作ったといえる部分があることになる。
*。
人を殺すことも、死刑にすることも神の意思となる。
すると人を殺しても死刑にしなけば、殺人数は少ない。
死者の数を多くするいことは、エントロピーを上げる。
即ち、秩序を悪くする。
これはいいことではない。
*。
エネルギー論に立てば、
殺人に死刑は反作用だ。
エントロピー論に立てば、死刑は却って秩序を悪くする。
力を生きるか心を生きるか。
全く違う世界が出来る。
*。
死刑は人の意思であることは確かだ。
神の意思とは言い切れない。
即ち、死刑は殺人の肯定だ。
殺し合いは発振だ。
これは本来の機能ではない。
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死刑は神から授かったシステムの人の意思による運用だ。
即ち、死刑は神の意思ではない。
即ち、神の冒涜だ。
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コメント
親族関係者は関係を否定するために、自治体を破壊したと仮定しよう。反社会性だよ!皆他人よりも親族を死刑すると思うな。私もこんな人だから、死刑執行について意見を言うために、落ち込んで、気分障害になる。近縁しか言えないよ!
投稿: 市村慧芳 | 2009年3月15日 (日) 00時55分